目の前のコトを大切に生きる

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はっぴーはっぴーはっぴーらいふ

私のママのこと

 

 

 

私のママって強くて弱くてファンキーでクレイジー



 

さっき、Twitter"Kiroroの『未来へ』"をカバーしてる人を見かけてママの事を思い出しました。

 

私の実家は大阪にあります。大阪の中でも市内ではなくてTAKATSU-KINGで有名な高槻の川向こうの枚方です。V6の岡田くんの出身地でもあり、ひらパーという遊園地があって岡田くんはそこの宣伝大使として園長としてもPRをしてくれています。

 

母と弟と妹は今もそこで元気に生きています。

(ほんとにめちゃくちゃに元気!)

 

母は、21歳の時に私をこの世に産み落としました。その3年後には弟を産み、そのまた10年後に妹を生みます。

(この時点ですごいファンキー感ある)

 

私が生まれて4年、弟が生まれて1年経ったある日5年連れ添ったお父さんと別れて他人になりました

 

そこから母1人子2人の生活が始まります。

当時、親が離婚している人なんて周りにいなくてすごく恥ずかしくて悲しい事だと思っていましたが、私はあえて人に会えば元気よく"私のママ離婚してん!"と自慢げに話していました。(多分私もクレイジー)

 

でも、正直苦しくも悲しくも辛くも有りませんでした。なぜならうちには母がいて、父(母)がいて弟もいたからです。吉本新喜劇を見ながら真似したり、家族3人で布団に寝っ転がってシンクロナイズドスイミングの真似をして足芸をしたりアホな事を毎日毎日毎日毎日していました。

 

だから私はどこのどんな家族より幸せだと感じてたしママだってきっとそうだと思っていました。でも、私には父の記憶もありました(弟にはなかったですが…)周りにはお父さんお母さん両方揃って幸せそうな家族もたくさんいます。子供心に聞いちゃいけない発しちゃいけない言葉は知っていて感じているのですが、子供は意外と賢くてずるいです。

怒られるたびに、

"お父さんがおらんから、こんなに大変なことばっかりなんや!!ママが結婚しーひんからや!"

と、訳も分からない言い訳でママをたくさん傷つけていました。

 

小学生になると、どんどん可愛い服が着たくなったりおしゃれな靴が欲しくなったりする頃。

 

その当時は、mezzo pianoやエンジェルブルー、そのほかにも色々人気のある子供服ブランドがあり、皆着ていたので私も欲しい!!と強請りました。

昔は聞き分けのいい方だったので、自分の状況を理解してお姉ちゃんをしなきゃいけないと思ってなかなか自分の欲しい物などをワガママ言って買ってもらったりなどができませんでした。

でもお洋服だけはどうしても欲しくて、一緒に百貨店に行ってたくさん試着して、沢山買ってもらったと思います。

(なぜか、mezzo pianoで買ってもらったワッペンが沢山付いたジーパンと、卒業式用に買ってもらったスーツだけは今も鮮明に覚えています)

 

そんな中で、母は

ある男性と出会い仲良くなっていきます

 

その方はよく家にも遊びに来てて、

私たち兄弟にもすごくよくしてくれる優しいおっちゃんだったのですが

その優しいおっちゃんが後の妹の父親となる人です。

 

その優しいおっちゃんが遊びに来るたびに私は"ママと結婚して〜!"とお願いしていました。

その頃の私は結婚とか離婚とか、紙を書けば簡単にできて、いやだったらすぐやり直せばいい簡単に考えていました。

 

そのうちいつのまにか一緒に住むようになっていて、その頃は夏になると山に行ってキャンプをし海に行って海水浴をし、冬になると別荘に行って過ごしていました。

(本当に本当にいい思い出しかない…!)

 

それから何年か経つとママのお腹に赤ちゃんができます。

 

それが、妹です。妹はママのお腹にいる時からもう名前が決まっていました。

決まってないのは漢字だけで、私が勝手にユイちゃんと呼んでてそのままその名前が付きました。(うちの女子は全員"ユ"がつきます)

 

ユイちゃんが生まれて数ヶ月経ったある日

その日はゴールデンウィーク前日。学校から帰ってきた私と弟は大はしゃぎをしていました。

ゴールデンウィークは家族旅行があったのでママが沢山お菓子を用意して、旅行の準備をしていたからです。

私と弟はもうウキウキで

"なぁ、ママ〜!お菓子一個だけ食べていい??"

"このお菓子やったら小袋やからいいやんなぁ?"

とかもうとにかくおかしのことばっかり。

もちろん、

"あほか!それは明日の車の中まで我慢!"

と食べさせてはもらえませんでした。

 

そのまま夕飯の準備を終えたところで

"ママちょっと病院行ってくるわ〜!ユイちゃん見ててなぁ"と近くの病院へ出かけていきました。

 

そこから私達のゴールデンウィークは止まってしまいます。

 

夜遅くなっても帰ってこない母に、なぜか無理やりご飯を食べさせる父。そして泣き止まない妹。私は頭は良くないですが、勘は良い方。

何か病院で良くないことがあったのかも。

と、察しました。

 

でも父は何も言いません。

私は意地悪でひねくれているので

"ママいつ帰ってくんの〜?明日から旅行やんな?行くやんな?"

と父を問い詰めます。

それでも口を割らずに

"ユイちゃん見ててや"

と父まで出かけて行ってしまいました。

 

不安はどんどん募るし弟はまだ小学校5年生。何にも分かっていないので変なことは言えません。

 

私は自分の携帯電話から

しつこくしつこくママに電話をかけて、しつこくしつこくメールをしました。

"いつ帰ってくんの?"

"会いたいよぉ〜"

"旅行どうすんの〜?"

旅行がいけない事なんてそんな事はちゃんとわかってるのに。むしろ楽しみにしてたのは行きの車で食べるお菓子だけだったのですが、こんな状況になるとどうしても意地でも行きたいと思ってしまって、そんな内容のメールをストーカーのように送り続けました。

 

でも、返事が返ってくる事はありませんでした。

 

その間に小学生の弟は

"お姉ちゃん、おかし食べていいかなあ?"

と、旅行前日に買ったお菓子の確認をしてきます。

お父さんは許可を出すのですが、どうしてもそれだけは私が許せなくて、

"そのお菓子は旅行に行く車で食べるやつやからあかん!旅行行きたいやろ?絶対あかんからな!"

と意地を張ってママが帰ってくる事を信じて。なぜかお菓子を死守していました。

 

でも帰ってくる事なくゴールデンウィークが終わりました。

その日から毎日朝から夕方までおばあちゃんが

車に乗ってうちにやってきて、家事をしてユイちゃんを見てくれて、私が帰ってくると、その役割は私に変わります。ママが帰ってこない寂しさと、その年齢で家事や育児に近い事をするストレスで私も泣きながら泣きわめく妹を抱っこしてあやしていました。

(こんなこと書きながら今も泣いてる)

 

ママきっと"癌"なんだ。

 

ふと、毎晩布団の中で声を押し殺して泣いていた時に思いました。

だって、おばあちゃんに聞いてもお父さんに聞いても、"大丈夫、帰ってくる"としか言ってくれないんだもん、なんかあるな?って中学生にもなっていたら気付いてしまいます。

 

そこで私は最終手段。

お父さんに、"ママに会いに行くから病院教えて"攻撃をしました。

 

この攻撃は、妹がお腹にいる時、

体調崩して母が入院したことがありました。

何度か行ったことがある病院だったので

近くはなかったのですが、お父さんにも弟にも内緒で行ってずっとずっと独り占めしたかったママを独り占めしに行きました

(多分私は究極のマザコン)

その時の記憶で、私が会いにいけばいいんだ!

と思いついたものでした。

 

その攻撃を受けてとうとうお父さんは

"ママは、癌だからしばらく帰れない"

と教えてくれました。

(多分ママが、会いたくないから言わないで欲しいし、病院にも連れてきてほしくないと言ってた)

 

そこからやっぱり毎日毎晩布団の中で声を押し殺して泣きました。

(なぜか人前で泣くのが苦手…)

 

母は子宮のがんで子宮全てを摘出しました。

 

半年くらい経ったある日

ようやく1日だけ一時退院をする事が出来ました。

その日はなぜかママが、私と2人っきりになる事をえらんでくれて、2人で近くのデパートに行きました。

2人でかつらを見に行って、ママのかつらを選んで、買い物をして夕方までママをひとりじめしました。

 

そこで、

"なんで電話もでえへんし、メールも返してくれへんかったん?"

と気になって聞いてしまいました。

答えは、

"ママも、あんたらに会いたいし声も聞きたいし帰りたいけど、声なんか聞いたらちゃんと話せる自信ないし、あんたらに会うために頑張ったんやから"

"あんたからのメールが1番ママには辛かった"

でした。

 

そこで初めて、言葉の持つ重みを知ったかもしれません。

 

そこからみるみるうちに回復して、

子宮は無いけど元気に生きています。

 

今の所、いやこれからも。再発はありません。

 

それから数年経って、

美容学校に通う私の就職の時期がきました。

 

私が余りにも。本当に余りにもマザコン

甘ったれだったから、

ママは子離れができませんでした。

(私だって親離れできていない)

 

就職先を、東京にしたいと話した時

"あんたはどうせ無理や。すぐ帰ってくんねんから行っても無駄や!"

"一人暮らしでやっていけるわけない!"

と最初は断固反対でした。

長女的性格の私は、誰かにいいね!行っておいで!と言ってもらえないことには前へ進めません。

特に、母が反対なんてしようものならその事がうまく行く事なんてあり得ないと思っていました。

 

だけどどうしても出てきたかった私は

どうにか母に、"行っておいで"と言わせました。

 

そして、就職先も決まり、部屋を決めに東京に2人で来ました。

職場に2人で挨拶に行き、部屋を探して決めて、ホテルに2人で泊まる。

またママを独り占め!

でも多分これが最後の独り占めかもしれない

と思って思う存分甘え、

2人で夜にカラオケに行った時、沢山歌いました。

離れ離れになる事を思い出さないように明るい歌をたくさん。沢山歌った最後にママが、

" Kiroroの『未来へ』"

を選曲しました。この曲は昔よくカラオケ大会に出ていたママが

カラオケに行くとよく歌う18番で

その時もそれくらいのつもりで聴いていたのですがママは途中から大号泣。私ももらってしまって2人で大号泣。

ちゃんと歌えるわけもなく、途中棄権することに…笑

 

そのあと少しだけ話しました。

 

あんたがママの元から離れていくなんて

今でも信じられへんし、

行って欲しくない。

けど、あんたが東京に行きたいって

言ってきたあの日から

あー多分もう、こうやってママから離れていくんやろうな

って想像はしてた。

あんたには色んな思いさせてきたけど、

ママは子育て間違ってなかったよな?

 

と。

母は、よくおばあちゃんから

"あんたの子育ては子育てじゃない そんなんじゃロクな子に育たへん"

と怒られていたそうです

(私はそんな事つゆ知らず…)

だからきっとそういう意味での

子育て間違ってなかったよな?

だったんだと思うんですが、それは私にもわかりません。

でも、ママにやっぱり子育て間違ってなかったって確信してもらえるような

自慢の娘でいたいな。という気持ちだけはあります。

誰にも恥じない自慢の娘になるから、こらからも元気で楽しく。ファンキーにクレイジー

生きていってね!

再来週は、13歳年下のユイちゃんが

小学校を卒業します。

 

あの時泣きながら抱っこしていた子が中学生に。

仕事がお休みの日なので大阪に帰って卒業式に出たいと思います。

きっと色んな感情が込み上げてきて、今みたいに泣いちゃうと思うけどそれもいい思い出

 

ユイちゃんがもっと大きくなったら

こんな事があったんだよって

笑って話しがで着る日が来るだろう。

 

それまでは家族の中では私とママだけの秘密の時間

 

愛情いっぱいに育ててくれたママには本当に感謝しかないです。私もいつかちゃんと母親になれる日が来るのでしょうか。

楽しみに未来を歩いていきたいです。

 

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(ちなみにこっちに来て初めての母の誕生日の日のSNSです。)

 

ほら 足元を見てごらん これがあなたの歩む道

ほら 前を見てごらん あれがあなたの未来